金山のまちを知るために、まちの方々にお話しを聞く「かなやまの達人」インタビュー。
第3回は、金山近辺にずっとお住まいで現代美術コレクターとしても著名な刃物屋いとうさん。実はクリエイティブ・リンク・ナゴヤの佐藤も、刃物屋さんとほぼ同年代で子どものころから成人するまで金山近辺に住んでいました。2人とも総合駅ができる前に高校に地下鉄通学、TOUTEN BOOKSTOREがある沢上商店街の全盛期も記憶にあり、地図を見ながら、金山の懐かし話で盛り上がりました。
※本記事は2024年度アートリンク金山「かなやまじんくらぶ」の活動にて行ったインタビューを転載しています※
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聞いたひと:クリエイティブ・リンク・ナゴヤ(佐藤友美、谷口裕子、半田萌)
聞いた日と場所 :2024年6月21日 TOUTEN BOOKSTORE
刃物屋さん)
金山で文化スポットといってもあまりないんだよね、ブラジルコーヒーくらいですかね。
新尾頭に昔、ギャラリーがあったけどなくなったし。もっと昔、沢上に映画館があったらしいけど。
佐藤)
私が小学校1年生のときに祖父母と同居するためにここら辺に引っ越してきたときにはもうなかったですよね。母が父と結婚したころから「映画館があったというのは聞いてた」とは言ってたから、1960年代以前の話?
刃物屋さん)
沢上って市電の停留所と車庫があったじゃないですか。戦前からの繁華街って大抵、路面電車の末端が交差するところなんですよ。今池もそうだし、尾頭橋もそうだった。尾頭橋は市電と名鉄の接続点だったから。
佐藤)
刃物屋さんは中学生の時に引っ越してきたっておっしゃってましたよね。
刃物屋さん)
名古屋市博物館に寄贈した無我夢中戯映として、映画や写真などを撮影した祖父の弟の伊藤章一と妹が住んでて、祖父が亡くなったので祖母と同居しようと引っ越してきたんですよね。その頃は沢上商店街も店が軒を連ねててね。
佐藤)
そうそうたくさんお店がありましたね。布団屋さんだけでも2軒ありましたしね。なんで2軒もあったんだろ。
刃物屋さん)
ほらベッドのない時代だから、必ず嫁入り道具にいるでしょ、布団とタンスは。
あと、近代的に栄えている商店街ってのはフルーツショップがある。新宿だと高野、日本橋や銀座は千疋屋でしょ。入り口にフルーツショップがあって、布団屋があって、映画館がある。沢上商店街も、近代商店街の典型的な店舗構成だったわけよ。
佐藤)
たしかに入口に果物屋さんがありました。近くに服部病院があるからだと思ってたのに!あとは、八百屋さん、酒屋さん、銭湯、喫茶店、和菓子屋さん、お寿司屋さん…お肉屋さんのほかに、かしわ(鶏肉)屋さんも別にありました。そこの子どもさんが小学校の同級生ってのもけっこういましたね。
刃物屋さん)
イオンモール熱田から南からずっと今の向こう側の団地になっているところ一帯が、昔は全部軍事工廠だった。ほかにも日本車両とか、そういう職場があるわけじゃないですか。熱田の六番町とかも町工場が非常に多かったし、町工場向けの機械屋さんとか工具屋さんとかがここらへんもいっぱいあった。
佐藤)
町工場が、名鉄の線路沿いに熱田の方までありましたよね。
刃物屋さん)
あと、総合駅ができる前は名鉄の金山橋駅の前に波寄商店街があって、東邦ガスとかこの辺で働く人たちが、駅に帰ってく途中に飲み屋がたくさんあった。総合駅ができて名鉄も移っちゃって、乗降客がいなくなったから、商店街もなくなってしまったね。
佐藤)
私、高校は地下鉄通学でしたけど、まだ総合駅じゃなかったから、熱田区側から地下鉄の金山駅に行くには名鉄の線路の上の高座橋、国鉄の線路の上の金山橋を通って、今もあるミスタードーナツの脇の入口から入ってました。今は総合駅の南口から入れるから近くなったけど。
刃物屋さん)
このミスドはずっとあって歴史があるミスドだね。その後に今の駅ビルができて、ミスドが一番左端にあるけど、この位置は当時のミスドのそのままだよね。
佐藤)
角のハンバーガーショップ、スワロウ、その後ロッテリアの前を通って。「立って食べてもスワロウ」ってキャッチコピーでした。「ハンバーガーショップ、スワロウ~♪」ってコマーシャルソングもありましたよね。歌ってたの、ほらほらほらほら、誰だっけ、なんとかなんとかってゆう…『青春時代』で一世を風靡した…(おそらく「森田公一とトップギャラン」)
刃物屋さん)
スワロウは名古屋ローカルチェーンだった割にそこは妙に贅沢だった。(スワロウは1972年(昭和47年)設立で、同年度の「事業所統計調査による事業所名簿 昭和47年 愛知県名古屋市(総理府統計局、1974年発行)」にスワロウスナック が京楽会館と同じ中区古沢町9-38で掲載されている。今フードコートと呼んでいるものを、当時はスナックコーナーと呼んでいたことから、ファーストフードとの意味を込めたスナックで、後にハンバーガショップへ変更されたものと思われる。)
マクドナルドも昔からありました(1973年(昭和48年)6月に市電金山橋駅前に中部1号店が開店したらしく、金山ワシントンホテルは1980年(昭和55年)9月30日開業なので、今の店は2代目)。
名古屋の中ではファーストフードが早くから出店していた。
佐藤)
刃物屋さんはどうやって高校まで通ってたんですか?
刃物屋さん)
地下鉄で西高蔵駅から千種駅ですね。国鉄の中央線も今なら金山から本数あるけど当時は1時間に1本とかで、駅もすごく小さくて仮駅舎だったし、そこらへんはただの駐車場。駅を初めて降りた人は絶対びっくりしたと思うね。
名鉄の金山橋駅も戦後のままの感じ。国鉄も名鉄も金山総合駅になるって話がすでにあったから、どうせ移転するしってことだったんだろうね。結局1989年になっちゃったけど。
佐藤)
私も子どもだったこともあって、名鉄の金山橋駅行くのあんまり好きじゃなかったですね。暗い感じで。
刃物屋さん)
というか、まだ戦後復興中なんですよ。アスナルも仮建築だし、これが完成しないと名古屋の戦後復興は成就しないんだよ。総合駅絡みの開発で百貨店ができるという話もあったらしいけど、バブル崩壊で流れちゃったらしいよね。そういう意味では、金山って発展しそびれたともいえるかな。
佐藤)
ナゴヤドームができる前は、ドラゴンズも中日球場、ナゴヤ球場だったでしょ。今の山王駅がナゴヤ球場前駅だったけど、混むからみんなけっこう歩いて金山まで来る。場外馬券場もあるし、そもそも工場が多いから働いてる人も男性でって、金山駅近辺ってそういう人たち向けの店があるイメージでした。
刃物屋さん)
1989年のデザイン博の時は金山に総合駅ができただけじゃなくて、白鳥会場の最寄りの西高蔵駅と日比野駅もデザイン駅にしましたよね。西高蔵にはたしか、天井にネオン管が仕込んであって、デザイン博の時はついてたんだけど、終わったら点灯しているのを見たことがない。30年数年たった今、電気を入れてネオンがつくのかどうか見てみたい。
佐藤)
そうそう、いまでも日比野駅とか西高蔵駅って他の駅にはないデザインがついてる。入口とか。あと、トイレが駅の規模の割には多いのはその名残りですね。
うーん、刃物屋さんと懐かし話をしてると終わらないんですけど(笑)、刃物屋さんはいまでも金山近辺にお住まいですよね。長いこと住まわれて、この街の住み心地はいかがですか?
刃物屋さん)
自宅のあるあたりは商店がほぼなくなったので。今は郊外の住宅地より閑静じゃないかな、夜、たまに暴走族が走るぐらいで。住みやすい住宅地だけど、じゃあ都会か?って言われると、うーん。交通の便のいい閑静な住宅地になってる。
結局、文化スポットが、金山そのものにほとんどないって理由は、もともと商店街があったのは沢上とか波寄とかだったからじゃないですかね。映画館やライブハウスもあくまで商店街の流れから普通出てくるでしょ。
なんかうだうだと集まる場所がないでしょ。ミュージシャンとかアーティストって、みんなどちらかというとそんな品行方正じゃないし、うだうだ集まっているうちになんかそういう文化が生まれたりするのでは。
佐藤)
今は、金山駅近辺はかなりきれいになって便利になったのは確かですよね。
刃物屋)
インバウンドの影響か、ホテルも増えましたね。セントレアからも一本で来られるから便利だし。
名古屋ボストン美術館も、名古屋市美術館のコレクションから、ナム・ジュン・パイクとか、草間彌生とか、宮島達男とかいい作品が沢山あるんだから、それを展示すれば、海外からの観光客向けの文化スポットになると思うんだけどね。地方美術館としては、名古屋市美のコレクションは素晴らしいのに常設展示室が狭いから、なかなか見られない作品が多くて残念だから。
文章構成・撮影:佐藤友美